MASAKIさんとの出会い
MASAKIさんは元MSW(医療ソーシャルワーカー)。小児麻痺で生まれつきの肢体障害のあるMASAKIさんは、治療のため小中学校時代は幾度も入退院を経験。岩見沢高等養護学校から東北福祉大学に進学し、全国社会福祉系学生ゼミナール協議会(全社ゼミ)での活動が現在の生き方のベースとなっている。当時は養護学校義務制施行の時期で、「義務化反対」「障害者解放」を主張する急進派の当事者たちと激しく対立。MASAKIさんは今でも発達と権利論の立場を堅持している。
大学卒業後は、旭川市内の病院でMSW(医療ソーシャルワーカー)として勤務。生活保護やアルコール依存症の支援に携わってきた。また、障害者列車「ひまわり号」や映画「どんぐりの家」の上映運動、きょうされん第19回全国大会の旭川開催に尽力するなど、地域障害者運動のリーダーとして活躍してきた。
難病を併発し、やむなく退職してからは、経験を活かして就労継続支援B型事業所などに携わりつつ、車椅子カーリングの選手として腕を磨き、車椅子カーリングチーム「キュー斗」の代表や、全国車椅子カーリング協会のアスリート委員長・北海道車椅子カーリング協会副会長として活躍した。団体の代表として2018平昌(ビョンチャン)パラリンピックに行き、「次こそは選手として・・・」と決意したのも束の間、コロナの流行や難病の進行で、現在はそうした社会的活動から身を引き、在宅での療養生活を送っている。
「若い頃、飲食店では、よく店員に介助してもらった。今ではハード面ではたしかに段差は減ったかもしれないが、心のバリアはむしろ高くなった気がする」という言葉は心に重く響いた。訪問のなかで、1981年の国際障害者年以降、「ノーマライゼーション」や「バリアフリー」という言葉だけが強調され、その内実はどうかという問いがゼミ生たちに投げかけられ、宿題として待ち帰ることとなったMASAKIさんとの出会いだった。
[吉澤] 高橋さんのお話にとても共感しました。バリアフリー化とか進んでるけど、大切なのは障害者に対する理解を深め、偏見でなく自分の目で正しい情報を得ることが重要になってくると考えました。自分も行動できるような人になりたいと思いました。