アール・ブリュット探訪Vol.1
障害者アートは存在するのか??:アール・ブリュット探訪
-アール・ブリュットとは??-
長濱ゼミ研究ゼミナール(4年生)の報告です。
皆さん、こんにちは。
コミュニティ福祉学科4年の福原知謹(フクハラトモチカ)です。
今期(2024年度:2024.04~)、
長濱ゼミにてプロジェクト化し進めておりました「ゼミT制作プロジェクト」は、
ゼミTが出来上がり、販売も始まったことにより、一区切りの成果となりました。
以下、
長濱ゼミの新プロジェクト概要とページのリンクとなります。
長濱ゼミの目的、つまりこのゼミの活動理念は、
『身体的・知的な部分で何かしらのバリアを抱えている方である当事者とその環境に目を向けその相互作用への分析と考察をし、よりよい世界を目指す為に学習及び研究をおこなうことを目的とする』
(※ここでは障害という言葉を敢えてバリアと変更しております)
を基にして、活動を行っております。
つまり、
その相互作用を分析するには、当事者の方たちの可能性も僕たちが発信していくことは使命だと考えています。
そこで、
『知的な部分で何かしらのバリアを抱えている方である当事者とその環境』
その両者(当事者及び環境)のお力を借りてTシャツを作り上げました。
Vol.1では、当事者のお力をお借りすることを主軸とした記事となっております。
Vol.2では、当事者が関わっている環境に目を向けた記事になっております。
そして、最後にVol.3では、完成したTシャツの詳細を書かせていただきました。
このプロジェクトの中で、繰り返し引用してきた言葉があります。
それが、この言葉
【アール・ブリュット】
です。
今、記事からの新しい展開として、
我々長濱ゼミ研究ゼミナール(4年生)では、
今回のTシャツ制作に携わったことから、【アール・ブリュット】の世界を深堀りし、
「現:障害者福祉分野をはじめ、
様々な福祉分野において、アートというものがどのような立ち位置にあるのか
(主に障害者福祉分野)」
を探ってみたいと考え、
Tシャツ制作プロジェクトからの派生シリーズとさせていただきます。
それでは、まず初回は、「アール・ブリュット」に関してひも解いていきたいと思います。
「アール・ブリュット」とは・・・
1945年にフランス人画家、ジョン・デュビュッフェが提唱した、「art=芸術」「brut=加工されていない」
すなわち、
正規の美術教育を受けていない者などによる作品、
また
従来の文化規範から逸脱した作品である「生(き)の芸術」
を意味する言葉となります。
「アール・ブリュット」という言葉を提唱する以前は、
例えば、障がいを持った作者の作品は「精神分裂症の芸術」や「精神病理学的美術」とカテゴライズされており、必ずその作品には作者の病理的背景が共存していました。
デュビュッフェはこれらの作品を医学の分野から切り離し、より芸術の分野で評価すべきとこの造語を用いたのです。
また、デュビュッフェは決して障がい者のアートを総称して「アール・ブリュット」としたわけではなく、
「消化不良の人の芸術や膝の悪い人の芸術というものがないように、
狂人の芸術というものはない」
と述べています。
つまり、
決して「障がい者の芸術」などというものは存在せず、ただその作品には障がいという特性から生み出される「狂気」が存在するのであり、伝統的芸術には見られないその「狂気」にこそ高い芸術的価値があるというわけです。
さらにいうならば、
前述した「正規の美術教育を受けていない者などによる作品、また従来の文化規範から逸脱した作品」の作者は決して障がい者だけでなく、
幻視家、霊媒師、宗教家や囚人といった文明や芸術文化から隔離された者も含まれます。
次に、日本においての「アール・ブリュット」の変遷はどのようにものを辿っていくのか。
日本における障がい者アート(敢えてここではこの名称を使う)の第一人者は山下清であり、
「日本のゴッホ」として精神科医の式場がプロモーションをしかけます。
(山下清は裸の大将として有名な貼り絵作家ですね)
しかし、
精神科医であり、かつ、もともとジャーナリズムに身を置き活躍する式場に対して反感を持っていた日本の美術界から、このプロモーションは敬遠されることとなります。
日本の美術界は山下清および障害者の作品を、
美術ではなく
「福祉」
あるいは
「教育」
の分野と位置付けて、日本の美術界から閉め出してしまいました。
こうして、日本では障害者のアートを美術分野に取り入れることをせず、
当時は、福祉や教育の分野でのみ語られることになるのです。
ただ、
そもそも、障害者のアートを世に広めるきっかけをつくった式場の目的は、
「知的障害児の教育可能性を信じさせること」
にありました。
(ここで、アール・ブリュット=障がい者アート=知的障害の方のアートという形をとることになったのではと推測できる)
また、式場は世間が障害者のアートに求めるものはアートとしての価値ではなく、教育や福祉の向上であると知っていました。
(ここがとても面白い部分だと僕自身は思っています)
このようにして、
日本には、当時、デュビュッフェのような芸術の観点から「アール・ブリュット」を世に広めようという人物は現れなかったのです。
そのことが、結果、日本と海外の「アール・ブリュット」をとりまく環境の大きな違いとなりました。
時代は移り変わり、
1990年代初めころから日本でも、「アール・ブリュット」に美術関係者から注目されていきます。
ただ、なぜか日本では、「アール・ブリュット」を、
【アウトサイダー・アート】
という名称で展覧会が開かれることとなり、日本でのアール・ブリュットはアウトサイダー・アートとして語られることになります。
(アウトサイダー・アートとして広めた人物がいると思われますが、今回調べても分かりませんでした)
また、日本では、障害者の作品以外の「アール・ブリュット」の情報を得る機会が少なかった為、次第にアウトサイダー・アートを障害者アートとして認識していくようになるのです。
参考文献:
①「アール・ブリュット」と障がい者アート:「芸術」として、「支援」として、そして「コミュニケーション」として 著:関久美子 新潟青陵大学短期大学部研究報告 第48号(2018)
②日本におけるアール・ブリュットの展開-脱境界の芸術と福祉の実践-著:宮地麻梨子 生涯発達研究 第6号(2013)
今回の記事はここまで。
今回は、「アール・ブリュット」がどのような歴史的変遷を海外と日本で歩んできたのかを深堀していきました。
次回からは、
更に、
「アール・ブリュット」は、
・教育的側面で語られるのが正しいのか??
・福祉的側面で語られるのが正しいのか??
はたまた、
・教育的側面でも福祉的側面でもないのか。
そして、それぞれの問題点はないのか、等を深めていきたいと考えています。
それに加え、
日本における、アートを主軸として活動している社会資源にも赴き、
ブログにて紹介していく計画となっております。
どうぞ、
新シリーズ:「障害者アートは存在するのか??:アール・ブリュット探訪」
のブログ記事更新をお楽しみいただければ幸いです
旭川市立大学
コミュニテイ福祉学科4年
福原知謹